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トンブリー王朝の面影を探し⑪モスリム地区-2

トンブリー王朝の面影を探しての街歩き、中心部であった旧王宮エリアと城壁跡を離れてバンコクヤイ運河とバンコクノイ運河沿いを歩いています。

トンブリー王朝(1768年~1782年)の二百年以上前(1542年以前)はチャオプラヤー川の本流だったバンコクヤイ運河Bangkok Yai(昔はバンルアン運河Bang Luangと呼ばれていました)沿いは、タークシン王がトンブリーを都とした以前からお寺が点在し、人々の暮らしがあったようです。

20171223 KK 12

前回はバンコクヤイ運河沿いに広がるモスリム地区の中でも、運河の東側「グディ・カオKudi Khao」と呼ばれる地区を歩きました。グディ・カオとはバーンルアン・モスクの事でもあります。

前々回は「グディ・ジーンKudi Chin」と呼ばれる地区で、そこにはグディ・ジーンと呼ばれる建安宮、そしてグディ・ファランとも呼ばれるサンタクルーズ教会がありました。

今回歩く運河の西側には「グディ・ヤイKudi Yai」と呼ばれたトンソン・モスクがあります。今回の街歩きの中では分かりませんでしたが、もしかしたらグディ・ヤイ地区と言われているのかも知れません・・・

20171223 Map 1

あまりに多くの「グディKudi」が出て来るので真剣に調べたら、パーリー語起源で『僧の住む小屋』だそうで、アユタヤ王朝からトンブリー王朝を経て現チャクリー王朝初期までモスクやキリスト教会に使われたそうです。今まで本ブログでは「僧院」「僧房」として来ましたが、間違ってはいなかったようです。

さて、イサラパープ通りのチャルンファット橋でバンコクヤイ運河を渡るとすぐ道路の北側に「チャルンファット・モスクCharoen Phat Mosque」があり,モスク敷地に学校があります。

20171223 KK 8

このモスクはアユタヤ宮廷に近いイスラム教徒のグループによって建てられたそうで、。タークシン王が都をトンブリーに移して以来、彼らはここに定住したそうです。

20171223 KK 9

タイ寺院は平気で中に入るのですがモスクではそれがどうも出来ずに外から見るだけなのが常です。中に入れると是非見たいイスラミックアートがあります(画像上と下はGoogleMapsとBangkok Post紙の古い特集からです)。

20171223 KK 13

バス通りでもあるイサラパープ通りからチャルンファット・モスク前のソイ28に入ると一気にイスラム色を強めます。ただバーンルアン・モスク側と違って細い路地が入り組んでいる所ではありません。

横断幕がジャウィ文字なのかアラビア文字なのか?そもそもその差も知らないのですが(汗)何て書いてあるのでしょうねぇ~ そもそもタイのイスラム教徒はこうした文字を読めるのでしょうか? 分からない事だらけですねぇ~

20171223 KK 11

前回、そして今回とこのエリアを歩くと・・・どうしてもタイのイスラム教徒が気になるので調べました。現地の説明板や博物館では足りずに、図書館等の文献の方が参考になりました。個人のブログとしてはどうかとも思うのですが、この地区の理解を深める為に付け焼刃の知識で非常に大雑把に言えば・・・

インドはヒンドゥー教一色に思いがちですが、8世紀から(特に北インドは)何度か西アジアのイスラム国家に侵略され、11世紀以後にはイスラム化がされています。イスラム教徒とヒンドゥー教徒を別けたパキスタン分離後もインドには多くのイスラム教徒が暮らしています。ちなみに私が学校で学んだ時にバングラデシュは無く東パキスタンでした。そしてインド中部を旅した時にイスラム教徒が多い事に驚きました。

20171226 India

また9世紀にはペルシャやアラビアのイスラム商人が海洋貿易でインド洋を経て香料、象牙、陶磁器、絹、金銀銅・・・を求め東南アジア・中国にその影響力を強めて行きました。その大きな結果の一つが、15世紀からのイスラム国家のマラッカ王国(1402年~1511年)でしょう。マレー半島南からインドネシアへと現在に繋がるイスラム教の拠点となったはずです。

ポルトガルの進出でマラッカ陥落の後にもその北には同じイスラム国家のパタニ王国(1584年~1616年)が存在し、その時期はタイで言えばアユタヤ時代(1351年~1767年)に合致します。当時のパタニ王国とアユタヤ王朝は朝貢関係にありましたが、アユタヤ、トンブリー、チャクリー王朝とパタニ王国を支配化に置こうと何度もしています。画像下は1780年のフランス人が描いた東南アジアの地図です。

207171226 Map 1

そしてパタニ王国などマレー系モスリムのタイ(当時シャム)の強制移住はアユタヤ初期に始まり、チャックリー王朝ラマ5世ぐらいまで続いたように私は考えています。領土拡大の為に兵力を必要としたアユタヤ王朝は多くのマレー系モスリムを強制的に移住させています。

後のチャックリー王朝下で私が出合った記録では、ラマ3世統治下の1837年に工事が始まったセンセープ運河の掘削に多くのマレー系モスリムが使われています。当時、カンボジアに侵攻したタイはカンボジア南部でベトナムと衝突した第一次泰越戦争(1831年)、そして第二次泰越戦争(1841年)と東部への武器兵力輸送強化が必要な時で、その為にセンセープ運河が掘られたそうです。

その為か、センセープ運河沿いは今でも多くのモスクが点在しモスリムの人々が暮らしています。どこかでデータを見た記憶がありますが、バンコク全体の7割のモスクとモスリムの人々がバンコク東部にあるようです。このブログでもミンブリーやノンヂョークの街歩きでそんな事を紹介していますが、ラムカムヘン辺りから徐々にモスリム色を強め、ミンブリーから東はモスリムのコミュニティーが運河沿いに続きます。

20171226 Mosque 1

アユタヤ王朝中期から始まったチャオプラヤー川の蛇行する所にショートカットが掘られたのも、多くのモスリムが従事した事でしょう。そう言えばチャオプラヤー川のショートカット部には今回のエリアを含んでモスリムのコミュニティーが多くあるように思えます。

20171226 Mosque 2

一方、兵力や労働力ではなく、アユタヤ王朝が最初に西洋諸国と接した1511年(ポルトガル使節団)以前から、ペルシャなどイスラム国家との交易が盛んに行われていた事から、当時高い技術・芸術・文化を持ったペルシャ系モスリムが宮廷内部へ入り込んでいたのは間違いないでしょう。冒頭に書いたチャルンファット・モスクもそうした人々の子孫によって建てられたと思います。

さて、火葬が一般的でお墓も無いタイでイスラム教徒は土葬を必要としたそうです。そうしたモスリムの高級官史たちが眠る墓地がこの後で紹介する「トンソン・モスクTonson Mosque」にあります。

20171226 Ton Son 1

こんな事が分かって来ると・・・タイ南部の県は別にしてバンコクの一般的なモスリムの人々も数十万人レベル(おそらく40~50万人かそれ以上)でいるでしょうから、どうやって墓地を確保しているのか気になります。そう考えたら、日本においてもイスラム教徒の人々はどうしているのでしょう・・・

話を戻してバンコクヤイ運河沿いモスリム地区ですね・・・

チャルンファット・モスク前のソイ28を進むと、「タークシン王廟The King Taksin Shrine」と「ワット・ホン・ラッタナーラームWat Hong Rattanaram」に行き着きます。モスリム地区を分断するようにここだけちょっとおかしいのですが・・・

20171226 Shrine 2

トンブリーの広範囲にわたりタークシン王廟は多くの寺の中にありますが、その中でも2番目に大きいのかも知れません。もちろん一番大きいのはタラートプルーのワット・インターラーム内の鄭皇廟(タークシン王廟)だと思います。何しろタークシン王が祀られ王と母が眠る仏塔があるのですから(そこはまた詳しく書きます)。

タークシン王廟の上にある王の像が見つめているのは、歩いても10分程度とすぐ近くのトンブリー宮殿ことワン・ダーン宮殿のように思えます・・・

20171226 Shrine 1

そして王廟のすぐ前にあるワット・ホン・ラッタナーラームは元々「ワット・チャオ・スア・ホンWat Chao Sua Hong」あるいは「ワット・クルア・ホンWat Khrua Hong」と呼ばれ、アユタヤ時代に裕福な華人NAI HONGに寄って建てられたようです。それでホンHongがずっと寺名に付いています。

20171226 Hong 1

城壁の外ながら宮殿に非常に近いワット・ホンはトンブリー王朝時に宗教教育の中心となった記載が現地説明板にありました。本堂前にはなぜか古い大砲の複製品が置かれていましたが、その理由は分かりませんでした。

20171226 Hong 2

その何だか分からない大砲を除けば、静かでよく整備された美しいお寺です。観光客が訪れるような寺ではありませんが、本堂内も心落ち着くものがあります。本堂の黄金の仏像は腰がくびれ、身体全体がしなやかな(女性的な)スコータイ様式でしょうか。(言葉は適切ではありませんが私的には滑稽にも見えてしまい)ありがたみを感じないタイの仏像も多い中で美しい仏像かと思います。

20171226 Hong 3

タークシン王廟はともかく、ワット・ホンはモスリムのコミュニティーが確立される以前か、まだそれが小さな時にこの地に建てられたのでしょう。お寺の前はバンコクヤイ運河ですが、その対岸はバーンルアン・モスクで南はチャルンファット・モスク、そして北にはトンソン・モスクです。

20171226 Ton Son 2

ワット・ホンからまた運河沿いを北に向かうとトンソン・モスクです。「グディ・ヤイ」の名でアユタヤ時代の1688年に建てられましたが、現在の建物は何度か建て直されたものです。トンブリー王朝の80年前、おそらくバンコクで一番古いモスクだと考えられます。

20171226 Ton Son 3

アユタヤ王朝が西洋と接触する以前から宮廷に入り、その進んだ知識で高級官吏として仕えたペルシャ系イスラム教徒。そして、アユタヤ時代に故郷から兵力として連れて来られ、その後も運河掘削などで強制移住させられたマレー系モスリム。

20171226 Ton Son 4

このトンソン・モスクはそんな異なるイスラム教徒が交差した・・・トンブリー王宮のすぐ目の前であり、同時にバンコクヤイ運河がチャオプラヤー川のショートカット部と接する所なのです。

次回はバンコクヤイ運河沿いをタラートプルー方面に向かい、トンブリーの下町に入ります。

最後に、本シリーズの今までのエントリーは以下の通りです。

トンブリー王朝の面影を探し①その中核と歴史
トンブリー王朝の面影を探し②城壁跡を歩く 南側
トンブリー王朝の面影を探し③城壁跡を歩く 中央部
トンブリー王朝の面影を探し④城壁跡を歩く 北側-1
トンブリー王朝の面影を探し⑤城壁跡を歩く 北側-2
トンブリー王朝の面影を探し⑥城壁跡内
トンブリー王朝の面影を探し⑦次回予告と新たな気付き
トンブリー王朝の面影を探し⑧傭兵達に与えた地グディ・ジーン
トンブリー王朝の面影を探し⑨ポルトガル縁の地
トンブリー王朝の面影を探し⑩モスリム地区-1

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2017.12.26 | コメント(3) | バンコク街歩き

コメント

楽しく拝見しています。

こんにちは(^^)/
流石ですね!トンブリーの歴史的背景と特殊な地域性など感心するばかりです   !(^^)!

2017-12-26 火 08:54:35 | URL | matu #- [ 編集 ]

Re: 楽しく拝見しています。

matuさん

コメントありがとうございます。

どんどんマニアックな内容になって行くようで・・・きっと読まれる側は面白くないし、面倒くさいブログだと思うのですけどね(笑)

2017-12-26 火 10:09:50 | URL | ALSTER #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし

非表示設定でコメントを頂いています。ありがとうございます。

今日もセンセープ運河ボートに乗っていたのですが、モスクの前を通る度に墓地のスペースが気になってなりませんでした。

おっしゃるように華僑の立派な墓地をバンコク都を離れると度々目にしますが、バンコク都とその周辺に住まわれている一般的なイスラム教徒の墓地はどうなっているのか・・・ブログに書く事は無いかも知れませんが、街歩きで気になって知りたいテーマの一つです。

2017-12-26 火 20:54:05 | URL | ALSTER #- [ 編集 ]

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プロフィール

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Author:ALSTER
 
ALSTER(アルスター) 深川生まれの江戸っ子。アジア・ヨーロッパ・アメリカなどで海外在住28年超。55歳で日本企業を早期定年退職後アメリカで現地採用され2014年末退職。その後3年半タイでロングステイ。90年代前半からパソコン通信・PC改造・ホームページ運用を行い世界中からアクセス。そんな趣味から海外アクセス術、旅先通信本などの出版にも関わる。ヨーロッパ、北米、東南アジアの国々はほとんど訪れ、旅行にお酒・食べ歩き大好き人間です。

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